志度寺について
香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。
海の向こうはるかには、五剣山の稜線が望める。
推古天皇33年(625年)の創建と伝わり、四国霊場屈指の古刹である。平安時代の『梁塵秘抄』にも、霊験所として登場するなど、古くから観音霊場として信仰されてきた。
現在の伽藍は、江戸時代前期、初代高松藩、松平家初代頼重により寄進された。本堂の東西に閻魔堂と奪衣婆堂を配置し、この世とあの世の境に立つお寺、観音様の補陀洛浄土に渡る「死渡道場」と称した名残をとどめる。
また、「志度寺縁起絵図」をはじめ数多くの文化財が残されている。「海女の玉取縁起」は、開基とされる藤原不比等と地元の海女の悲恋や、子を思う母の深い愛情を描いている。
母の供養のために建立した「海女の墓」や、子を思う母の何ものにも染まらない思いを表した「無染庭」も伝えるべき文化財である。
「海女の玉取縁起」は、能や謡曲に取り上げられている。歌舞伎の田宮坊太郎の仇討話として有名な「花上野 誉 石碑・志度寺の段(はなのうえのほまれのいしぶみ・しどうじのだん)」の舞台である「お辻の井戸」も「曲水式庭園」の一角に今も残されている。
お参り方法
仁王門をくぐり、左側の2つ目の通路を行き手水舎と鐘楼堂の間を進むと五重塔の前に出る。その先にある奪衣婆堂を参拝後、右前に進むと本堂があり、その右に大師堂がある。大師堂を背に左に三尊仏があり、進むと閻魔堂がある、さらに進むと三社の祠を過ぎ薬師堂がある。右に曲がり左のピンク色の納骨堂を越えて左側の宝物館と書院の間を入って行くと右側に垣根に囲まれた無染庭があり前方に曲水式庭園が広がる。 無染庭の垣根に沿って右に進んだ先にお辻の井戸が前方にある。薬師堂前の参道に戻り、納経所は書院を過ぎて左手の白壁の蔵との間の小径を入って行くとある。
由緒
当寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた霊木を凡薗子尼(おおしのそのこに、またはおおしのそののこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊・十一面観音を造立し、小さな堂を建て祀ったという。625年(推古天皇33年)のことで創建とされている。
681年(天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死渡道場」と名づけたという。また、693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立したと伝えられている。この海辺は極楽浄土へ続いているとの信仰を伝えたという。
室町時代には四国管領の細川氏から寺領を安堵され繁栄するが、そののち戦乱により寺内は荒廃する。その後、藤原氏末裔の生駒親正による支援などを経て、1670~71年(寛文10~11年)、高松藩主松平頼重の寄進(現本堂・仁王門)などにより、再興された。
1962年(昭和37年)に重森三玲による枯山水「無染庭」が造られている。
志度寺の文化財
志度寺は志度寺縁起(国重文)によると推古天皇の時代、西暦625年に凡園子(おおしそのこ)という尼により本尊の十一面観音像(国重文)が創られたのが始まりとされ約1400年の歴史があります。
天武天皇の時代に、藤原鎌足(かまたり)と息子の藤原不比等(ふひと)ゆかりの寺院である興福寺を建立するにあたり鎌足の娘が中国から三つの宝を送ろうとしますが、志度の沖で竜神に宝の一つである宝玉を奪われてしまいます。
その宝珠を取り返しに志度の地に やって来た藤原不比等の妻となった海女が、竜宮から取り返しますが命を落としてしまいます。後に不比等と海女の間に生まれた藤原房前(ふさざき)が僧行基(ぎょうき)と共に志度寺を訪れて、母を弔う石塔と堂舎(死度道場)を建立したと伝えられます。
志度寺は古くから閻魔大王の氏寺としてあがめられ、十一面観音と閻魔大王に祈りをささげることで復活と再生の機会を得られると伝えられており、それにまつわる縁起がいくつか残されています。
天正年間(1573~92)に兵火にかかりましたが、1670~71年に高松藩の松平頼重の帰依をうけて諸堂が再興されました。再興された本堂、仁王門は共に国の重要文化財に指定されており、仁王像は運慶の作であるとも伝承されています。現在は閻魔堂、奪衣婆堂、薬師堂、五重塔などが配置され、この世とあの世の境にある寺として広く信仰を集めています。
また当山の庭園は曲水式庭園として室町時代の菅領細川氏によって整備され室町時代の趣を伝える名園と言われています。その隣にある枯山水の無染庭は昭和期の作庭家重森三玲(しげもりみれい)の代表作でもあります。
以上のような文化財や縁起の伝わる厄除け、身体健康、蘇生等の霊験の加護を頂こうと古くから日本全国より数多くの参拝客が訪れる寺院です。
志度寺縁起絵
1. 御衣木之縁起
志度道場の本尊、十一面観音像のもとになった御衣木(みそぎ)についての物語。
琵琶湖西岸の谷から流れ出た霊木が、淀川を下って志度の浦に辿り着き、薗子尼(そのこあま)によって引き上げられ観音像となり、お堂に奉られる話。
3. 志度道場縁起 (二)
宝珠を奪還するために不比等(ふひと)は志度の海女と結婚し、息子房前(ふさざき) が生まれると事情を話し、玉の奪還を頼む。海女は息子を託し竜宮から玉を取り返して、息絶える。海女の菩提を弔うために志度道場が造られる話。
志度寺・香川ゆかりの能楽
志度寺縁起絵図修復記念事業で催された、志度寺と香川にゆかりの能楽の舞。
無染庭での雅な舞をご覧ください。
・香川県ゆかりの仕舞「八島」「船弁慶クセ」
・志度寺「海女の墓」にまつわる「玉ノ段」「海人」後